まほろばトラベル2015

150517 松江→出雲
150614 出雲→雲南
150712 雲南→松江→出雲
150809 島根→岡山
150906 岡山→姫路→大阪



150517 松江→出雲

 神話の国・出雲に行きたいと長らく思っていた。ついでに姫路城も見ることができたら効率がよいとか、どうせなら余部鉄橋にも行きたいとか、西日本に縁のない私は無責任に夢をふくらませていた。
 何もしないでいると、姫路城は2009年に修理がはじまり見れなくなり、余部鉄橋は2010年に新しいコンクリートの橋に建て替えられてしまった。しばらくは出雲へのあこがれも薄れていたのだが、出雲大社の遷宮および姫路城修理完了の報を受け、今度こそ旅行を企画した。

 2泊3日で、行きか帰りの途中に姫路城に寄る。後戻りできないようにホテルの予約だけ先におこない、細かいことは後で考よう。
 そこまでを平日にやって、金曜日に飲み会があった。定年退職した仲間の送別会だ。残りの有休を消化していたその人は、偶然にもつい数日前に出雲に行っていた。ここで出雲に行く際は松江にも行くといいと教えていただいた。
 2泊3日で姫路城と松江と出雲は難しいだろう。そう考えて、出雲での2泊の翌日にもう1泊することにした。宿泊地は、東海道山陽新幹線から出雲行きの特急に乗り換える街、岡山。こうすれば3日目の夜にホテルに着き、4日目の朝一番で姫路に行くことができる。また、2日目にレンタカーを借りてあちこちを見て回ることにした。


4月28日(火・年休)

 名古屋に行くには普段は名鉄名古屋本線を使うが、今回は三河線で刈谷に行く。ここからがJRだ。Yahoo乗換案内によると名古屋〜出雲市は587.6km、刈谷〜出雲市は612km。片道601km以上だと、行き・帰りそれぞれの運賃が1割引きになる。
 名古屋からは新幹線で岡山へ、そして岡山から特急やくもで山陰へ。特急やくもには車内販売がない。駅の売店で菓子や飲み物を買うのが必須だ。
 電車に揺られること約2時間半、松江で途中下車。

 バスで松江城に行く。まずは城の隣にある島根県物産観光館なる施設で昼メシ。出雲そばを食べる。そばを椀のつゆにつけて食べるのではなく、そばの器につゆをかけるという食べ方らしい。食べ方以前に、そばの味がイマイチだった。まあ本格的な店ではないし、仕方がないか。
 ここでは県内の様々なパンフレットをもらい、あらためて松江城へ。

 松江にある城だから松江城。このときの私にはその程度の認識しかなかった。
 だが、松江城は私にとって身近な城だった。後で知ったことだが、ストリートファイター2のリュウステージの城のモデルがこの松江城なのだ。
 また、この城を築いたのは堀尾吉晴という武将だった。秀吉の家臣で名前を知っている程度の人物だが、説明板には遠江浜松や三河池鯉鮒での活躍が書かれていたのには驚いた。

 この城は旅行後の5月15日に天守として日本で五つめの国宝に指定されることになる。うむ、いいタイミングで行くことができた。韮山反射炉は見に行く前に世界遺産になっちゃったけど。


豊臣の城は黒く徳川の城は白いというが、これは黒い。

そうだったのか。波動拳!

大手前広場にある堀尾吉晴公の像。


 実は、もっとも驚いたのは、クルマのCMで登場したベタ踏み坂が松江にあるということだったりする。これは実際に走ってみたいぞ。明日、レンタカーでそこまで行く余裕があるだろうか。


橋のチラシ(笑)。松江にあると言っても
松江と境港をまたぐ、県境の橋らしい。
ちょいとばかり遠すぎるぜ。


 さて、松江市は島根県の県庁所在地。愛知県庁や静岡県庁と同じく、島根県庁は松江城のすぐ隣にある。そして島根県といえばアレ。駅前にも県庁にもあった、話題のアレ。
 「竹島かえれ島と海」。
 竹島資料室なる博物館?を見つけたので行ってみたのだが、残念ながら火曜日は定休日で中に入ることはできなかった。

 松江からは各駅停車で出雲市へ。ここに着いたのは16時くらいだったかな。明日はレンタカーを借りることになっているが、クルマであちこち行けるにしても一番最初に出雲大社を詣でたい。ホテルにチェックインする前に、キャリーバッグを持ったままバスで出雲大社へ。

 とうとう来たぞ出雲大社。私はここに願い事をしに来たのではない。天に、感謝の気持ちを捧げに来たのだ。
 年がら年中神頼みってのも情けない。たまには神サマを労って少しは苦労を肩代わりしてやろうというわけだ。
 元ネタ、わかる?


勢溜の鳥居。拝殿のすぐ手前にある「銅の鳥居」は
工事中だった。遷宮はまだ完全には終わっていないのだ。

拝殿。注連縄、でけえ! というか
いくら平日の夕方とはいえ全く無人の写真が撮れるとは。

奥の、屋根のアホ毛(千木という)が見えるのが本殿。
高さ24m。かつては48mの高さがあったと言われている。

因幡の白兎とオオクニヌシ。
境内にはウサギの像があちこちにある。

波の上に乗っている金玉はオオクニヌシの幸魂奇魂。
「吾は汝が幸魂奇魂なり」って、正直なところ意味不明だ。

少し離れたところにある神楽殿。注連縄、さらにでけえ!
地祇・出雲の宮司と天神・皇族の女王が結婚したっけな。


 穏やかな気持で大社を後にすると、重要な事を忘れていたのに気づいた。今回、出雲の神社めぐりをするにあたり、御朱印を集めるということをしてみようと思っていたのだ。出雲大社の御朱印を、一番最初のページにいただきたい。そのために一番最初にここに来たんだっけ。
 門前町にある土産物屋で勾玉のアクセサリーと御朱印帳を購入。大社に戻り、朱印受付の場所を探す。が、窓口は閉ざされていた。後でネットで調べると受付時間は20時までとあったが、窓口をガンガン叩いて店員さん(違うって)を呼び出すわけにもいかないし、もう遅い。仕方がない、明日もまた来よう。

 バスで駅まで戻り、徒歩でホテルへ。
 ノドグロなる魚が山陰地方の名物らしいが、酒が飲めないので一品料理屋には怖くて入れない。駅前の定食屋でまたも出雲そば。やはりイマイチだった。

 夜はホテルで駅や物産観光館で貰ったパンフレットに目を通す。明日行こうと思っていた名所のほかにも訪れてみたい場所が多数あった。果たしてすべてまわることができるだろうか。





150614 出雲→雲南

 前回は殊勝なことを書いたが、今回の目的は出雲大社で神に感謝することだけではない。ヤマタノオロチをはじめとする神話の舞台を見てまわる。そのためにレンタカーを借りたのだ。
 松江駅や松江城、出雲市駅にはさまざまな観光ガイドがあった。しまねパーフェクトガイドマップは有料でもおかしくないほどの充実ぶりだし、島根県雲南市 ヤマタノオロチ伝説を巡る旅は私の旅にピッタリのテーマだ(雲南市についてしか書かれていないけど)。最終的に旅の相棒としたのが神話ゆかりの地 周遊ドライブマップ
 昨晩は巡回セールスマン問題を解くがごとく、最適なドライブルートを検討した。


4月29日(水・祝)

 朝。前日にコンビニで買っておいたパンを食べ、出発。レンタカーを利用するのは石垣島の中学校の先生となったギチョー大谷氏と一緒に西表島に行った大学院生時代以来だ。
 大手ではなく格安業者を使ったのだが、いろいろと面倒な説明を受けた。利用料金が安いかわりに車内を汚したり傷をつけたりした時の修理代金が高いのだろう。
 カーナビは別料金だったので利用しないことをを選択していた。その代わりあらかじめ自分のポータブルナビ・サンヨーゴリラを持ってきている。出発前に目的地を入力してあるし、きのうパンフで見つけた新たな見所も昨晩のうちに入力したし、SDカードに音楽も入っている。

 借りたレンタカー・日産マーチにはナビのスタンドだけが付いていたが、それはゴリラのものだった。これはラッキー、うまく装着することができるぞ。
 自分のナビをレンタカーのスタンドに装着し、シガーライターソケットにアダプターを差し込む。しかし電源の供給はなされず、バッテリーモードでしか動かなかった。これでは丸一日ドライブすることができないではないか。
 シガーが無効化されているのかとも思ったが、いくら利用料金以外のお金にシビアな格安レンタカーとはいえそんな面倒なことをするはずがない。
 よく見たら、ACアダプターが、出発前に自分のクルマから取り外した際に必要な部品まで取れて壊れてしまっていた。アホか自分。
 仕方がないのでコンビニでスマホのシガーACアダプターを購入。便利な時代になったものだ。


ナビが使えないのでスマホを立てかけて使うの図。


 一番は朝の出雲大社。なんといっても神社は朝が早い。御朱印をいただき、きのうとはまた違う気分で散策する。ネットで調べたところ出雲大社では3ヶ所で御朱印をいただくことができる。拝殿と、神楽殿と、「宗教法人 出雲教」。出雲大社と聞くと無条件にすげー!となるが、宗教法人 出雲教では一気にありがたみが薄れてしまう。出雲教の御朱印はいただかかなった。


朱印帳にいただいた御朱印。朱印帳がない場合は
印字した紙ををいただくこともできる。

本殿を裏から見てみた。ここに神が住まうのだろう。

アメノホヒを祭るやしろ。


 出雲大社の近くには歌舞伎の元祖、出雲阿国の墓がある。
 さらに進むと稲佐の浜なる浜がある。ここは国引き神話の舞台だ。事前勉強したつもりだが国引き神話など知らないぞ。それも無理はない話で、国引き神話は古事記にも日本書紀にも書かれていない。出雲国風土記の神話なのだ。記紀でいえば国譲り神話に縁のある場所もあるらしいが、そこまでは見にいかなかった。


出雲阿国の墓。

稲佐の浜にポツリと存在する弁天島。
地学的にどうなってんの、これ?


 ここからは北に行く。島根半島の西端、日御碕には日御碕神社がある。日御碕は「ひのみさき」と読むが、『うしおととら』の二代目お役目様・日崎御角が頭に浮かび、なかなか正しく読むことができなかった。
 日御碕神社には二つのやしろがある。アマテラスを祭る日沈の宮と、スサノオを祭る神の宮だ。日沈の宮は伊勢神宮と対をなす宮で、伊勢が日本の昼を、ここ日御碕神社が日本の夜を守るとされている。


婆ちゃんかっけー!

日沈の宮。

神の宮。


 ここから南下。まずはきのうバスで通った、街中の観光スポット。
 廃線となった鉄道の駅、その名も大社駅。かつては(旧国鉄として)出雲大社にもっとも近い駅だった。ついでに言えば出雲大社がある町はわずか10年前に平成の大合併で出雲市に合併されたばかりで、それまでは大社町という地方自治体だった。
 この路線が廃止となったのもそれほど昔ではなく1990年のこと。駅舎は大正時代のもので国の重要文化財に指定されている。出雲大社を模した造りで、実に味わい深い。D51も置かれていた。


大社駅の駅舎。

D51。以前は出雲大社に置かれていたんだって。


 次の目的地に行く途中、パンフの中にあったが行くつもりはなかった長浜神社の案内があったので急遽行くことにした。
 ここは国引き神話の主人公が主祭神で、そのため綱引きをはじめとする各種スポーツについてご利益があるらしい。
 また同時に妙見信仰の神社でもあり、北極星に祈ったりもする。
 説明の看板で☆や★が多用されているのを見て何だかギャルっぽいなと思ったりしたものだ。


長浜神社の拝殿。

「大内★尼子★毛利の…」って、そこに★を使うか!


 で、ここからがようやく本番。須佐神社に向かう。ここは他の伝承地からは遠く離れておりやや不便なのだが、行かないわけにはいかない。
 須佐神社はスサノオ、クシナダヒメ、クシナダヒメの両親であるアシナヅチ・テナヅチを祭る神社で、ここの神主はアシナヅチ・テナヅチの子孫を自称している。
 ヤマタノオロチを倒したスサノオが宮殿を建てた地とされる。

 僻地にあるが、冗談抜きで朝一番の出雲大社よりも人が多かった。物好きな人が多いのだな。
 ここで12時になったのであらかじめコンビニで買っておいたおにぎりを食べる。
 スケジュールが厳しい。長浜神社はスルーすべきだった。


須佐神社。


 またしばらくクルマを走らせて、雲南市に向かう。雲南市は平成の大合併でできた市。吉田村や三刀屋町などが合併してできた市だ。吉田村は秘密結社鷹の爪の吉田くんの出身地。また、三刀屋町はオオクニヌシノミコトの寝床=御門屋(みとや)に由来する──とYone氏が調べてくれた町だ。
 前述のとおりここがヤマタノオロチ伝説の本場。専用のガイドマップがあるほど。

八本杉スサノオがヤマタノオロチを倒し、その八つの蛇頭を埋めてその上に八本の杉を植えたとされる地。
八俣大蛇公園スサノオが斐伊川の上流から箸が流れてくるのを見つけ拾った地。ここからヤマタノオロチ退治の物語が始まるというわけ。
ナビで検索して出てきた場所が微妙に違っており、行くことができなかった。石像などがあるとはいえただの公園なら行かなくてもいいや。
八口神社(印瀬の壺神)ヤマタノオロチが飲んだ八塩折の酒を入れた壺の一つを祭る。地図上では山の中にありそこに至る道が描かれていなかったが、道中で看板を見かけたので行くことにした。
天が淵ヤマタノオロチが住んでいたところ。
 もちろんこれら意外にも多くの神話伝承地がある。ルートや時間の制約上、行くことはできなかった。
温泉神社クシナダヒメの両親、アシナヅチ・テナヅチの墓がある。
稲田神社クシナダヒメが生まれた地。
尾留大明神旧社地スサノオがヤマタノオロチの尾を切り、草薙剣を入手した地。
奥出雲おろちループ伝説とは関係ないけどこういうの知ったら行きたくなっちゃうよな。「無理!時間ないから無理!」と叫びながら交差点をスルーした。
などなど。



八本杉。

八俣大蛇公園を探しているときに見つけた野生のタヌキ。

印瀬の壺神。

天が淵。「ただの川じゃん」だって? そうだよ。


 ところで、ヤマタノオロチ伝説は太古の製鉄技術と結び付けられることが多い。
 神話を伝える神社だけでなく、製鉄の歴史を伝える博物館もこの地には多くある。和鋼博物館、鉄の歴史博物館/鉄の未来科学館、奥出雲たたらと刀剣館、たたら角炉伝承館、絲原記念館など。似たようなハコモノを作りすぎだと納税者が文句を言い出さないのか不思議なくらいだ。
 ただし今回は博物館をゆっくりと見てまわる時間などない。出雲大社の隣にある古代出雲歴史博物館すらスルーしているのだから。
 この旅行の直前にYone氏と掲示板で日刀保たたらについて話をしたが、彼がそこまでたたらについて興味を抱いていると知っていたらもう少し何とかなったかもしれないのだが。

 とはいえ私も元溶接業の父を持ち、旧金属学科である材料学科に進学した男。製鉄への関心がないわけではない。
 世界遺産である石見銀山には行かず、製鉄関係の博物館にも行っていないが、鍛冶の神・金屋子神の神社、金屋子神社には行った。全国に1200ほどある金屋子神社の総本山だという。
 さすが鍛冶の神を祭るだけあって多くのヒが置かれている。ふむふむ、これは約500年前に作られたヒか。歴史を感じるなあ…って、そもそも読めねーよ! なんて読むんだよ! どういう意味なんだよ


『信長のシェフ』での説明。

金屋子神社。隣には金屋子神話民俗館がある。

ヒ。「金偏に母」で検索すれば答えは得られる。


 今は14時30分。これから北上して松江に向かうところだ。初日に出雲大社の御朱印をいただくことができなかったので、今から行く神社は朱印の受付時間を調べてある。二つの神社に17時までに着きたい。それがどれほどの難しさなのか、スマホのナビアプリからでは読み取ることができなかった。


直線距離だと松江〜出雲は名古屋〜安城と同じくらいなのか。交通量は圧倒的に少ないけど。


 

150712 雲南→松江→出雲

 さらにしばらくクルマを走らせて、富田八幡宮という神社の前に出た。これは「神話ゆかりの地 周遊ドライブマップ」に紹介されていた神社だが、八幡神とは応神天皇のことであり今回の旅の趣旨とは合致しないためスルーした。
 だが、全体ルートの中の現在位置を確認するためにドライブマップを広げると、この近くに月山富田城跡があることに気づいた。神話というテーマから外れるためこのドライブマップでの扱いはごく小さく、昨晩は見落としていたのだ。

 月山富田城といえばアレだよアレ。山中鹿之助が主家の再興を誓い、月に向かって「我に七難八苦を与えたまえ」と祈った地。もっとも、主家である尼子氏についてはほとんど知らないんですけどね。戦国鍋TVの「ヘアアーティスト毛利」くらいかな、尼子が出てくるお話で知ってるのは。
 神話巡りの途中で意外な名所に出会ってしまった。
 ここはふもとが道の駅となっており、歴女好みのイケメン鹿之助ポスター等があった。
 時間がないので山頂まではとても行けない。途中にある尼子神社や山中鹿之助の像を見るだけで終わり。
 15時30分、次の目的地に向かう。


私が山中鹿介幸盛を鹿之助と表記するのはドラえもんに拠ります。

遠くから見ると山頂に城が見えるがそれは富田山荘という
温泉宿であって本物の城ではない。騙された。

月に祈る山中鹿之助。
マゾ的な喜びに打ち震えているのだろう、たぶん。


 16時過ぎ、八重垣神社に到着。ヤマタノオロチを倒したスサノオと人質とされていたクシナダヒメが住居をかまえた地とされ、縁結びの神社として有名。和紙に硬貨を乗せて池の水面に乗せ、早く沈めは良縁が近いという占いで女子に人気だ。
 スサノオが詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣つくる その八重垣を」は日本初の和歌といわれている。
 松江駅からのバス便もあり、カップルや女の子のグループが多数いた。
 そんな中、私は御朱印をいただいてさっさとこの場を後にする。恋占いなどするわけがない。といってもカップルだらけでいたたまれなくなったわけではない。このとき16時20分。もう一つの神社にも行かなくてはならない。

 八重垣神社を出たとき、スマホのナビでは17時到着予定だった。だが、走っているうちにどんどんと到着予定時刻が早まっていった。ナビアプリが時速何キロで計算しているのかはわからないが、人が少なく信号機も少ない地で、想定以上にスムーズに走ることができたのだろう。猛スピードでぶっ飛ばしたわけでは断じてない。

 そして16時45分に須我神社に着いた。ヤマタノオロチを倒したスサノオと人質とされていたクシナダヒメが住居をかまえた地とされ、「日本初之宮」と呼ばれている。また日本初の和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻込みに 八重垣つくる その八重垣を」と詠んだとされる。…って、八重垣神社とどう違うん?
 どうやら最初は須我神社の地にあって、後で引っ越ししたらしい。
 こっちは交通の便が悪いこともあり、参拝者は少なかった。神社の人なのか地元の人なのかわからないが声をかけてくれたので、談笑しながら本日最後の御朱印をいただいた。

 八重垣神社から須我神社に行く途中に、忌部神社という神社があった。行きは時間が厳しいので帰りに寄ってみた。
 天岩戸に隠れたアマテラスを、アメノウズメらとともに引きずり出す神フトダマを祖とする太古の豪族、忌部氏。その名を持つこの神社はもちろんフトダマを祭っている。と後で調べたWikipediaに書いてあった。
 クルマを停める場所がなかったので鳥居の前から写真を撮ったのみ。


八重垣神社。

須我神社。

忌部神社。


 神社はこれで終わりだが、もう一つ、きのうドライブマップを見て行きたくなった場所があった。
 重要度は最上級。オオクニヌシが国譲りに応じるための条件として「自分のために天まで届く宮殿を造れ」と言って天津神に建築させたという伝承を持つ出雲大社と並ぶほどの重要さだ。少なくとも私にとってはね。
 その地、黄泉比良坂。かつて神話について調べたときに黄泉比良坂とされる地が出雲にあることを書いていたが、そんな細かいことまで憶えているはずがない。ドライブマップを見て気づいてよかった。

 ここへ行くには松江からさらに東に進む。道路は国道9号で、今回はじめて渋滞に遭遇した。
 石碑があるだけの場所だが、私の前にもう一人探訪者がいた。


黄泉比良坂。

「神蹟 黄泉比良坂/伊賦夜坂 伝説地」碑。

宗教施設ではないので看板はこんなに派手(笑)。


 このとき17時40分。レンタカーを返却する期限は20時。松江から出雲までは、各駅停車の電車で約1時間だった。今からベタ踏み坂まで行き、20時までに出雲に戻ることはとてもできないだろう。素直に帰ることにする。帰りの途中に、さらにもう一つ寄るべきところがあるし。
 沈む夕日を追いかけるように宍道湖畔を西に進む。そして出雲の手前で帰りのルートから外れる。今日最後の目的地、それは富士通ノートパソコン「出雲モデル」のふるさと、島根富士通だ。いやまあ、行ったところで何をするというわけでもないですけど。


宍道湖は夕焼けの美しさで有名。

政之くんは島根富士通に出張したことがあるかな?

たどり着いたのは正門ではなく裏門だったのかもしれない。


 島根富士通に寄るだけ寄って、あとはひたすら西に進む。レンタカー屋に着いたのは思っていたより早く、19時。とはいえベタ踏み坂まで行っていたら時間オーバーで追加料金を請求されたことだろう。それに、何といっても、朝も昼もコンビニのちょっとしたものを食べただけ(月山富田城の道の駅で飲み物は買った)なのでこの上なく空腹なのだ。鎌倉に行ったときも同様だったが、私は旅行における食事の重要度がきわめて低い。それを自覚しているとはいえ、これはいくらなんでもやり過ぎだ。

 朝、ホテルからレンタカー屋に歩いて行く途中にファミレスがあったことを覚えていたのでそこに寄る。普通にハンバーグ定食か何かを食べたかっただけなのだが、その店・ビッグボーイはサラダバーにスープバーにドリンクバーにカレーライスまで食べ放題だった。
 これはありがたい、とカレーを2杯たいらげてスープもサラダも何往復もして、もちろんハンバーグも食べて、動けなくなるほどに腹一杯になってしまった。

 ホテルに戻り、大浴場のマッサージチェアでたっぷり10分以上揉みほぐされ、翌日に備えるのだった。
 …明日はどこに行こうかな。神社関係は一通り見たし、クルマがなければベタ踏み坂に行っても仕方がない。松江・出雲の旅行本にはほぼ必ず併記されている境港の水木しげるロードだが、ベタ踏み坂に行かず水木しげるロードに行くというのも本末転倒な気もする。
 そんなこんなで明日の予定が決まらぬまま、疲れのためにベッドに潜り込んだのだった。



寄り道をした上でギリギリセーフとは出来過ぎだ。


 
150809 島根→岡山

4月30日(木)

 今日は、夜までに岡山に行く。例によって、それより詳しい予定はまったく立てていなかった。出雲大社が徒歩圏内なら行っていたが、バスで片道30分ではもう行く気になれない。
 だが、ここで重要な仕事を思い出した。土産を買わなくてはならない。このまま家に帰るのであれば電車に乗る直前に買ってもいいだろう。だが今の私は旅の途中。荷物は手提げ袋ではなく、キャリーバッグにちゃんと入れたい。となると、一旦駅で土産を買って、ホテルに戻ってそれをバッグに詰めるという作業が必要だ。
 出雲市駅にはさまざまな土産があった。小学校や幼稚園のチビたちへの土産には因幡の白兎の絵が描かれた菓子がいいだろう。高校中学のお嬢さんたちには可愛らしい縁結びのイラストの菓子と勾玉。職場の仲間たちには出雲大社遷宮にちなんだ菓子。そこまではすぐに決まったが、肝心の両親への土産でぴったりなものが思いつかなかった。両親に思いを込めてというわけではなく、100パーセント自分の趣味で、おろち饅頭なるまんじゅうを買う。あと自分用に、ノドグロ炊き込みご飯の素。

 そして。駅とか空港とか、街の玄関口にはあるだろうと期待していたものを、期待通り見つけることができた。それは顔ハメ看板。日本神話の神を模しているのは期待通りだが、ノートパソコンを持っている富士通のものとは期待以上。まったくもって今回の私の旅にぴったりな顔ハメ看板ではないか。
 もしここで、できたてホヤホヤ新鮮なFMVが売られていたら買ってしまっていたところだ。売店のおばさんに私が顔ハメしている姿を撮ってもらおうかとも思ったが、その姿を想像すると情けなくなってくるのでやめた。


何時頃にホテルを出て駅に着いたか
覚えていないが、これの撮影は9時半。


 ホテルに戻って、土産をキャリーバッグに詰め込んで、チェックアウトして、また駅に行って。結局、そのまま岡山に行った。だって、出雲松江エリアでこれ以上どこに行けばいいのかわからないんだもの。「かつ江さん」で有名になった鳥取市の鳥取城はルート外だし。
 往路は松江からは鈍行だったので今回がはじめてなのだが、特急やくもの中では宍道湖についてアナウンスしてくれた。あと往路にもあったかも知れないが、大山についても。


宍道湖唯一の島、嫁ヶ島はお社のある島。

米子発の境線では鬼太郎列車が出ている。

伯耆富士こと大山。


 米子駅の写真の撮影時刻から推測するに、10:33発の特急やくもに乗って13:38に岡山に着いたのだと思われる。そのあいだ口にしたのは出雲のポプラなるコンビニで買ったおにぎりと飲み物のみ。
 岡山駅の中で昼食を取ろうと思ったのだが、結局店を決めることができずホテルへ向かう。
 ホテルの1階のレストランで遅めの昼食。えびめしなる謎の地元料理を食べる。まったく知らない料理なので驚いて店員さんに「なんでこんなにご飯が黒いの?」と聞いたのだが、レシピを尋ねていると勘違いしたのか「それは秘密です」と言われてしまった。


 松江に松江城があるように、岡山には岡山城がある。
 戦国時代のこの城の動向は大したものではないが、豊臣秀吉が天下を取ってから関が原の戦いで徳川家康が最終的に天下を手に入れるまでの短い間にドラマチックな展開がある。
 岡山城の主・宇喜多家の若き当主は元服の際、豊臣秀吉より「秀」の一字を与えられ秀家と名乗り秀吉の猶子となった。猶子といってもあくまで他人、姉の子である豊臣秀次ほどの血の濃さはない。秀吉自身の子である豊臣秀頼が生まれた後に秀次が不名誉な死に方をしたのとは異なり、秀家は宇喜多家の当主として忠誠を誓いつづけている。
 宇喜多秀家が元服したのとほぼ同じ頃、秀吉は義理の甥(ねねの兄の子)を養子とする。秀次の次に継承権を持つとされていたが、やはり秀頼誕生でその運命は大きく狂うことになる。秀吉はこの少年への関心を急速に失い、小早川家の養子に渡される。その少年こそ、のちの小早川秀秋だった。

 秀吉が死に、関が原の戦いが起こると宇喜多秀家と小早川秀秋はともに西軍についた。だが、小早川秀秋が裏切って東軍に与したことにより西軍は大敗。宇喜多秀家は八丈島へ流される。
 主を失った岡山城を与えられたのが、よりによって小早川秀秋。エグいな徳川家康。
 だが、そのわずか2年後に小早川秀秋は狂い死にする。ちなみに宇喜多秀家は八丈島で誰よりも長生きした。
…ということを知っていたが、別に岡山城に行くつもりはなかった。だが、まだ14時半。他に見るべきところも思い浮かばないしという消極的な理由で岡山城へ行く。


岡山城。

『風雲児たち』の宇喜多秀家と小早川秀秋。

 岡山城では裏切り者の小早川秀秋の扱いはごく小さかった…ということはないが、この地に置かれて2年で死にお家断絶した彼の扱いが大きくないのは仕方がない話。


 岡山城の隣には日本三名園の一つ、後楽園がある。かつて紅葉の季節に金沢の兼六園に行った私だが、これには関心を持たなかった。ホテルに戻り、駅でもらったパンフレットに目を通す。
 すると桃太郎に関係する吉備津神社や吉備津彦神社といった神社があることがわかった。これらの神社を見に行こうと駅に行き、吉備線なる地方路線に乗る。電車の中で路線図を見ると、吉備津駅の一つ先に備中高松駅なる駅があることに気づいた。
 備中高松駅? 備中高松…城? それは『軍師官兵衛』でも描かれた羽柴秀吉の戦い、「高松城の水攻め」の舞台ではないか! 神社も魅力的ではあるが今回はこちらを見に行くことにした。こんな素晴らしい地をただ宿泊のためだけと考えていたとは何たる愚かさ。


 備中高松城址は今は多くの池を持つ公園となっている。


本丸址公園。

高松城水攻之図。

『センゴク一統記』清水宗治、自刃の図。
辞世の句は「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の
名を高松の 苔に残して」。

清水宗治公自刃之阯碑。こことは別に首塚もある。
Google日本語入力によると「阯」は「址」の正字。

一部、堤防の跡も残っている。
これは蛙ヶ鼻の水攻築堤阯碑。


 布陣図には、明智光秀と並んで織田家のトップツーである羽柴秀吉のそうそうたるメンバーを見ることができる。



 山の上に秀吉の本陣があって、もう一つの山に羽柴秀長がいて、堤を築いて敵城を水没せしめたあたりにこの壮大な案を考えだした軍師黒田官兵衛がいる。蜂須賀彦右衛門(幼名小六)もいる。そして、官兵衛と小六の間にある、いかにも秀吉の重臣であるかのように書かれている名前。堀尾茂助とはすなわち、のちに松江城主となる堀尾吉晴だ。マジか! こんなマイナー武将に何度も出会うとは驚きだ。こういう、その時気になっている事がタイムリーに周りで起こる現象は何と呼ぶのだろうか。
 宇喜多の名も並んでいる。宇喜多忠家は宇喜多秀家の父・直家の弟。父・直家はこの前年に死に、11歳の秀家が宇喜多家の当主となっていた。といってもさすがに軍を率いることはできないのでこの叔父が大将となっていたわけだ。


 吉備線は30分に1本しか電車が来ない。あらかじめ時間を調べておいた私は時間ギリギリに駅に戻り、岡山に戻る。うむ、期せずして大いに楽しんでしまった。もっと事前勉強をしておけばよかった。
 夕食は、ホテルの地下にある中華料理屋。出雲のホテルには大浴場があったが岡山のホテルはそれがない(そのせいか、こちらのほうが安かった)ので部屋の小さい風呂に入り、夜遊びをすることなくバタンキュー。
 明日は朝一番で姫路に向かうぞ。


 

150906 岡山→姫路→大阪

5月1日(金)

 姫路城は9時オープン。新幹線で岡山から姫路まで約30分。ということで、朝7時頃にホテルを出て新幹線の中でコンビニのおにぎりを食べる。
 松江ではキャリーバッグをゴロゴロ引っ張って歩いたが(幸い、松江城には無料の預かり所があった)、姫路城は混雑しているだろうから駅のコインロッカーに入れていく。
 そして姫路城に着いたのが8時半。早起きは三文の得だ。

 入場料を払う門では整理券まで渡された。城の敷地内に入るのに入場料を払うが、だからといって城に何度も入ることはできず、入れるのは1回のみということだ。
 平成の大改修を終えたばかりの姫路城は、壁面だけでなく瓦にも漆喰がなされ、正直言って不自然なほどに白かった。
 松江城も同様だが、国宝なだけに過剰な改装はなされていない。エレベーターなんてとんでもない話だ。なあ、名古屋城?
 あらかじめスマホアプリを入れておけばARで面白いものが見られるらしいが、そんなのを見ているヒマがないほどに激混みだ。


白い、白いぞ姫路城。

城壁には銃眼がある。日本の城では狭間(さま)という。

瓦の一つ一つにまで白い漆喰がなされている。

最上階には長壁神社が。混みすぎにつきスルーした。

播州皿屋敷と関係がある? お菊井戸。

西の丸には千姫が住んでいた。庭園もあり、絶景だ。



 姫路城を一通り見てまわったとき、まだ10時過ぎだった。
 もう帰るか? とも思ったが、ここでプラスアルファな目的地を思いついた。まったくの予定外だが、せっかくだから大阪城にも行こう。

 姫路城は姫路駅の近くにあるが、大阪城はそうではない。新大阪から大阪に行き、さらに大阪環状線に乗り換える必要があるのだ。ということを新幹線の中でスマホで調べた。
 そうそう、新幹線といえば、乗ったのが東海道山陽新幹線の車両ではなく九州新幹線の「さくら」だったのには驚いた。
 一番最初に刈谷で買った切符で大阪近郊区間を回ることができるかどうかはわからなかった。万が一にもここで切符を取り上げられてしまったら大変なので、新大阪駅で一旦下車し、手持ちの交通系ICカードであらためて入場した。
 ここでもキャリーバッグをコインロッカーに預けた。わざわざ書くまでもないと思うかもしれないが、これはケチな私にとっては大きな決断なのだ。

 大阪城は石山本願寺があった地に建てられた。秀吉が建てた城は大阪夏の陣で焼失し、2代将軍徳川秀忠が再建した。ただしその城も50年しないうちに天守を火災で失っているので、昭和時代に建てられた現在の復興天守がもっとも長命だったりする。
 内部は博物館になっている。さすが天下人の城だけあって、書状などの史料は実に興味深い。屏風図なども多数あり、見ていて楽しい。黄金の茶室の原寸大模型もある。写真撮影不可なのがなんとも残念だ。

 大阪城の一角には豊国神社がある。秀吉の生誕地・名古屋の中村にもあるが、ここにも当然あるってわけだ。それほど歴史があるものではないが、それを言ったら名古屋のだって同じだ。
 ここでは御朱印をいただいた。今回の旅で最後の御朱印だ。


豊臣秀頼 淀殿ら自刃の地碑。建てられたのは平成時代。

大阪城にもエレベーターがあったのか。

黒漆に金箔で虎や鶴が描かれている。これは豊臣風。

だが下の方は白い漆喰の徳川風。折衷デザインなのだ。

虎は位置的に間近で見ることはできないが、鶴は見れる。

豊国神社の秀吉像。どうも画像縮小がイマイチだな。



 大阪城での最初の写真は12時30分、最後の写真は14時10分。大阪城公園には多くの屋台があったが、それなりに腹をふくらませることができるであろうメニューはすでに全滅だった。この間、かき氷を食べたのみ。
 新大阪まで戻り、「東の崎陽軒、西の蓬莱」と謳われるという551蓬莱の豚まんを買って食べる。『孤独のグルメ』でゴローちゃんが新幹線の中に匂いを充満させて失敗をこいたジェットボックスシウマイ(あれも崎陽軒だな)を思い出すが、遠慮などしていられない。

 新大阪から名古屋までは約50分。時間には余裕がある。京都にも寄ろうかなとか、名古屋の豊国神社に行って大阪の豊国神社と並んで御朱印をいただこうかなとかいろいろ考えたが、疲労のためそのまま帰ることにした。

 こうして私の旅は終わった。
 最大の収穫は…京都が意外と近いことを知ったこと、かな。京都には寄っていないんですけどね。
 これから気軽に奈良京都を見に行くことができるだろう。特に京都は外国人の客が多く、宿を取るのが大変らしいけど。



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